憂愁ミッドナイト

眠れない夜に

思考のゆくさき

仕事に煮詰まると、ブログの執筆が捗る。

世のクリエイターたちもおそらくそうだろう。ただのブログと文芸を一緒にしてはいけないかもしれないが。その証に、売れた途端に面白くなくなる作家や漫画家は多い。

 

人生が順調に進んでいる時には、何かを生み出す力はなくなってしまうのではないか、と思う。恋人と会ってる時の自分は、実につまらなくて腑抜けた人間に見えるだろう。でも一番自然体で、よく笑っていて、そんなつまらなくて平凡な自分が意外と嫌いではない。

 

私は元来、おしゃべりな気質なのだろう。

女が3つで姦しいと書く。男性より女性の方がよく話すというのは、もはや傾向ではなく事実だろう。けれど、私の知り合いで私のことをよく話す人だと思う人は少ないんじゃないだろうか。

 

むしろ静かな人だと思っている人の方が多いだろう。特に職場などでは、話しかけられないと自分から口を開くことはない。

 

小学生の頃は、よく話していた。他愛のないこと、考えたこと、感じたこと。「〇〇ちゃんが家に来ると、息を吐く暇もなく話すから賑やかになるね」と叔母に笑われたことを覚えている。

 

重松清の『卒業』という短編集に、「まゆみのマーチ」という一篇がある。この小説を初めて読んだ時、驚いたのを覚えている。作中のまゆみの経験が自分の経験と酷似していたからだ。まゆみにとっての歌うことが、私にとっては話すことだっただけだ。

 

話すことが好きだった。だから授業中も、よく隣の席の子に話しかけた。怒られて静かになっても、次の日にはまた話した。先生の堪忍袋の緒が切れて、席を前にされた。それでも話していたので、マスクを着けさせられた。

 

まゆみのように口元が赤く腫れるなんてことはなかった。不登校にもならなかった。ただ、話すことが極端に苦手になった。今でも人前に出ることが苦手で、どうしても話さなければいけない時はまるで警察に遭遇した指名手配犯かのような居心地の悪さを感じるようになった。

 

まゆみのように、何があっても味方になってくれる親はいなかった。親が私の話しすぎるところをよく思っていなかった。大人しくなってくれてよかったとすら、思っていそうだった。

 

話すことは苦手になったが、話したいことがなくなったわけではない。思考がとどまることはなく、とりとめもなく常に何かを考えている。『空が灰色だから』の不破さんのように。城田さんみたいな友人が一人でもいたら、少しは違ったのかもしれない。

 

インターネットという武器を手にしてからは、その世界に閉じこもるようになった。SNSでは、理想の自分を演じることもできたし、現実世界では見せられないような汚い部分を曝け出すこともできた。

 

結局、人の繋がりみたいなものを馬鹿にしながら人と交流したくてたまらないのだと気づいた。インターネットには自分と同じような人がいくらでもいる。「人間は一人では生きられない」という言葉は好きではないが、その通りだとも思う。

 

今は、くだらない話を聞いてくれる人がいる。いつも自分の不幸や足りない部分に目を向けて嘆いてしまうが、そんな環境が当たり前じゃないということを忘れずに生きていきたい。